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親鸞会法論惨敗の記録4~飛雲より

浄土真宗親鸞会のM野講師ではない、と強く否定する1会員を名乗る人物と、飛雲氏及び親鸞会批判者との法論の記録です。 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」での内容を転載したもので、親鸞会の1会員を名乗る人物の敗走で終わっています。

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親鸞聖人が19願を勧められた根拠はあるのか 5

「実は、『正像末和讃』『浄土三経往生文類』も読んだことがありません、を追加」のコメントより

M野講師ではない氏

此の諸智に於て疑惑して信ぜず。然も猶ほ罪福を信じ、善本を修習して、・・・
の前に
若し衆生有りて、疑惑の心を以て諸の功徳を修して、彼の国に生ぜんと願ぜん。佛智・不思議智・不可称智・大乗廣智・無等無倫最上勝智を了せず。
とありますが、これらをまとめて表わされた御和讃と解釈すべきでしょう。

信罪福心は因果の道理を信ずる心ですが、罪福を信じて諸の功徳に向いているのが19願、名号に向いているのが20願です。

親鸞会を散々断章取義と非難する割には、それが自分のことと気づかないものですね。

はやく18願の世界に入ってもらいたいの御心からは、19、20願に留まっている人を厳しく戒めるのは当然です。が、19願、20願は必ず通らねばならない道だからこそ、久しく留まってしまう19願を出て20願に入った人を「善本修習すぐれたり」と評価なされておられるのです。

19、20願を通らずに18願に入れるのなら、20願の人を、何故「善本修習すぐれたり」と言われるのですか。
なお、重ねて言っておきますが、私はM野支部長ではありません。幹部会員でもありません。何の役職もないただの1会員です。



反親鸞会A氏

見苦しい言い訳ですね。
あなたの言っている部分を含めて、20願成就文と親鸞聖人は仰っています。

読解力が不足しているようですから、サービスで解説しますと、仏智疑惑と信罪福心がセットになって他力と自力の違いで対比されているのです。本願の嘉号を己が善根とするのが自力念仏であり、因果の道理を信じて称えた念仏で助かろうとするものです。

因果の道理を信じて念仏するが重要なポイントになるのです。単に念仏するではないのです。

自力と他力の区別もつかないような理解では、親鸞聖人の教えなど語る資格はありませんね。

1首の御和讃では4行でしか表わせません。「如来の諸智を疑惑して」いるのに、「善本修習すぐれたり」と思っていることを嘆かれたのです。それが、「なおもまた」のお言葉です。20願成就文でいえば、「然るに猶ほ」です。

『往生要集』では、「然も猶ほ」です。親鸞聖人の表現と源信僧都の表現の違いは、レベルの低い人には分からないでしょうが、「なおもまた」「然るに猶ほ」で、自力念仏を厳しく誡めるために、敢て読み方を変えられたのです。

前後の御和讃を読めば明らかでしょう。それを断章取義と言うのですよ。
高森教の解釈など高森教内でしか通用しないのです。
今後も珍コメントして醜態を晒してよ。

補足しますと、19願、20願に迷っている人に対して、それは間違いだぞと仰ったのが誡疑讃です。

19願、20願を勧められた御和讃でないと散々言われていながら、捨てるためには必ず一度拾わなければならない、というヘンテコ理論でしか説明できないのがおかしいと思いなさいよ。迷っている人がいるから捨てよといわれるのであって、迷っていない人に一度必ず迷ってから戻ってこいと言われているのではない、と何度も何度も解説されているのに、本当に○が悪いのですね。

浄土真宗と高森宗とは、全く別の宗なのです。高森宗は高森宗の話を勝手にしていればいいですが、浄土真宗とか親鸞聖人と関係があるようにいうのだけは辞めてもらいたい。




反親鸞会B氏

20願成就文と御和讃を比較してみました。

「此の諸智に於いて疑惑して」=「如来の諸智を疑惑して」

「信ぜず。然るに猶ほ」=「信ぜずながらなほもまた」

「罪福を信じて」=「罪福ふかく信ぜしめ」

「善本を修習して」=「善本修習すぐれたり」

「すぐれたり」を強調したいのでしょうが、ここは20願の行人の気持ちです。

教学に疎い私でも、国語能力があれば、これくらいわかりますよ、M野支部長(?)。
覚如上人も蓮如上人もできない文底秘沈の解釈ができる高森顕徹という人物は、何億年、何兆年、いや十劫年に一人の人物ということですか。
アホらしい。



反親鸞会C氏

>名無しさん
≫久しく留まってしまう19願を出て20願に入った人を「善本修習すぐれたり」と
≫評価なされておられるのです。
・・・これはヒドイです。。あんまりです。
親鸞聖人がこれを聞かれたらどんなに悲しまれるでしょう。
どうやったら「評価なされておられる」って読めるのですか。
前後の御和讃からも一貫して戒められているじゃありませんか。
名無しさんの和讃の解釈は、
「18願を疑って信ぜずながら、なほもまた20願を信じて善本修習するのは素晴らしい」
となるのでしょうか?



退会者D氏

(会員)
高森先生、20願の自力念仏とはどんな念仏でしょうか。

(高森会長)
万行超過の念仏だといつも教えているだろう。

(会員)
では、万行超過の念仏を称えている人の気持ちはどういうものでしょうか。

(高森会長)
他の善と比較にならないくらい、善本修習はすぐれているということだ。

高森会長は、20願行者の気持ちをよく判っていますね。
誡疑讃の中で、化土往生について親鸞聖人は仰ってますが、親鸞会理論では、これも同じように化土往生を勧められていると解釈することになりますが。
無茶苦茶ですね。



反親鸞会B氏

確かに化身土巻の19願の方には、大経胎化段の
 もし衆生ありて、疑惑の心をもつて、もろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん。仏智・
 不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。
 しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。
 不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。
 しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。
という引用がある。しかし、20願真門釈の方にも
 ここをもつて『大経』(上)の願(第二十願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、
 十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、もろもろの徳本を植ゑて、心を至し回向して、
 わが国に生ぜんと欲はん、果遂せずは正覚を取らじ」と。
 またのたまはく(同・下)、「この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになほ罪福を信じて、
 善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず」と。
という引用があるんだよ、親鸞聖人が直々に一部省略して引用してる。断章取義云々で反撃しようと思ったけど残念だね、
19願で引用した胎化段と全く同じ箇所から、聖人自身がわざわざこの一節だけをピックアップして、
それを20願真門釈の方に引用されたわけだから、この部分は20願の意味なんだよ、ってことを
改めて親鸞聖人が明確にしてくださったんだよ。
それこそ「若し衆生有りて…」というところと切り離してでも、な。
なるほど、大経の胎化段はそもそも自力疑心を誡める内容、そして「もろもろの功徳を修して」は確かに
19願の内容だから、20願真門釈ではわざわざそれを省いておられるんだな、というのがよくわかる。
  ちなみに
  19願の方の引用では「善本~」のくだりは省略されていない。その理由は、
  自力諸行(19願)の方の中に、自力念仏も「諸行の中の一つ」として含まれてるから。
  聖道門、たとえば天台なんかも「朝題目夕念佛」っていうしね。
  自力諸行において念仏は「諸行の中の一つという扱いになってしまってる」状態だから省略はされない。

大経胎化段全体=本願疑惑の得失を明らかにし、自力を誡める=19願、20願双方に通じる
「もろもろの功徳を修して」 =19願の内容(20願真門釈では省かれる)
「罪福を信じて、善本を修習」=20願の内容(19願は「諸行中の1つ」として自力念仏があるから省かれてはいない)

よって、以下の4点から、件の和讃は19願を勧めたものという根拠にはならない。

1.「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧めた言葉というが、この言葉は20願のところにも引用されてるので
  「19願を勧めた言葉」という根拠にはならない。
  「罪福ふかく信ぜしめ」が20願真門釈で省かれ、19願特有のキーワードになってればよかったのにね。
  むしろ「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり」と罪福って言葉は
  御自釈上では20願の方で使ってる言葉だ。

2.「若し衆生有りて、疑惑の心を以て諸の功徳を修して…」の部分とまとめて解釈すべき、という主張をしたが、
  親鸞聖人はわざわざその部分を省いた引用を20願真門釈で行なってもいる。省略の有る・無し、二種類の
  引用をなさっているわけだから、「若し衆生有りて~」から解釈すべきか、省略した方で解釈すべきかは、
  和讃の中の言葉に現れてる部分で解釈すべき。

3.「若し衆生有りて、疑惑の心を以て諸の功徳を修して…」という言葉も含めた19願の方の引用と、
  その言葉を省略して引用した20願での引用。決定的な違いは「もろもろの功徳を修して」の部分。
  19願のことか20願のことかがこれで判明するから。(「疑惑」は双方にある言葉)
  →そして件の和讃には「もろもろの功徳を修して」に該当するキーワードはない。
  →よって、これは20願の行者に関することであり、19願について説かれた和讃という根拠にはならない。

4.まして19願自力諸行を「勧めている」言葉でもないし、そういう和讃でもない。(誡疑讃だから)
  今回勧めているお言葉というのは何も提示されなかった。「勧めているのです」という解釈してるだけ。
  親鸞聖人のお言葉の中で善をせよという言葉を、この和讃との関係をふまえつつ提示すべき。

というわけで、もう一度
  件の和讃が「 "19願を" "勧めた" ものである」という根拠になる文証を。

・それ以外のことに応える必要はないし、それ以外の質問もしないように。
・別の質問は「論点ずらし」。これまで散々批判されてきた親鸞会の常套手段です。
・論点ずらしを行なうと、そういう訓練を受けてる人(=講師、支部長)という疑いが増すだけです。
・講師や支部長ではないと言っても、「一会員である証拠」だってないわけだから。
・まず「自分の提示した和讃が19願を勧めたものだ」という証拠を出す、この論点からずれないように




以後、論点ずらしで逃亡
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