浄土真宗親鸞会のM野講師ではない、と強く否定する1会員を名乗る人物と、飛雲氏及び親鸞会批判者との法論の記録です。 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」での内容を転載したもので、親鸞会の1会員を名乗る人物の敗走で終わっています。
19願は修諸功徳の願と言って平たくいうと「善をやりなさい。そうすれば助ける。」という願です。
つまり廃悪修善を勧めた願です。
どれだけ廃悪修善に向かえるかは因果の道理をどれだけ深く信じているかにかかっています。
その因果の道理を親鸞聖人は罪福という御言葉で教えられたのです。
罪福ふかく信じたならそれは必ず善の実行となってあらわれます。
もし、19願が単に浄土を願わせるためだけの願ならば、別段、ふかく信ぜしめる必要はありません。
懲りない人ですね。
『大無量寿経』胎化段にあるお言葉を、『浄土三経往生文類』にも引かれて、それを管理人さんはエントリーで紹介されました。その内容を御和讃で表現されたことが分からないとはね。
此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して
如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり
比較しろよな。どうしてこれが19願になるの。
もう少し言えば、
罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり
これも19願か。
立派なM野支部長ともう少し無い智慧を絞れよ。
教学力がないでしょうから補足説明すれば、
此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して
これは20願成就文です。
現役の人の主張・・・
「如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり」
この和讃は、①「十九願」を②「勧めた」和讃である。
この①②に対して、
1.十九願のことを言ってる和讃だ、という主張がおかしい
→この和讃は「此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して」と
20願に関連する言葉であるから。
2.十九願を「勧めている」という主張がおかしい
→この和讃の前後含めて誡疑讃という、「本願を疑うこと=自力心、を誡めた和讃」だから
「自力心を誡める」内容であって、「自力の善を行なえ」という和讃ではない
だから現役の人は「十九願はどういう願か」の講釈をする必要ない。
反論するなら
・「猶ほ罪福を信じて善本を修習して」という言葉を覆して
この和讃が19願のことを言ったものである証拠を提示して反論する。
・疑いを誡めるための和讃という言葉を覆して、
「19願で説かれた善を勧める」ものであるという証拠を提示して反論する。
これ以外の話をする必要はない。
色んなところで指摘されてるけど、親鸞会の人は「すぐ論点をすり替える」って言われてるし、
ちゃんと「"自分の提示した和讃"が19願のものかどうか、19願の善を勧めたものかどうか」という
論点からずれないで話をしてほしいもんだわ
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