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親鸞会法論惨敗の記録4~飛雲より

浄土真宗親鸞会のM野講師ではない、と強く否定する1会員を名乗る人物と、飛雲氏及び親鸞会批判者との法論の記録です。 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」での内容を転載したもので、親鸞会の1会員を名乗る人物の敗走で終わっています。

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はじめに

このブログは、浄土真宗親鸞会とその批判者との間で2010年2月19日から行われた法論の記録です。

内容は、
如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなをもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり(正像末和讃)
が、親鸞聖人が19願を勧められた根拠になるのか、というものでした。

原文は「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」というブログにあります。

浄土真宗親鸞会所属のM野講師ではないと強く否定する、1会員を名乗る人物が「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」にコメントしてきたことから法論が始まりました。

ただし、すぐに法論自体は決着しています。

浄土真宗親鸞会所属のM野講師ではないと強く否定する、1会員を名乗る人物が、論点をすり替えて、挙句の果てに逃亡しています。

ここでは、コメント欄とエントリーとが入り混じり、コメント参加者も数人いましたので、読みやすくするため、関係のあるコメントとエントリーのみを抜粋しています。

省略したコメント等もご覧になりたい場合は、リンク先でご確認下さい。
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親鸞聖人が19願を勧められた根拠はあるのか 1

「典型的な断章取義教学」のコメント欄より


M野講師ではないM野講師を尊敬する一会員を名乗る人物
(以下、M野講師ではない氏 とする)

聖道門も大聖釈尊が説きたもうた尊い法ですよ。



飛雲氏

聖道門も実践できる人には、正しい教えです。
しかし、悲しいかな末法の我々には、聖道門の修行にたえることができません。
そんな人のために浄土門があり、阿弥陀仏が本願を建ててくださいました。
聖道門の修行をされたい尊い方を非難するつもりは毛頭ありません。
ただ、浄土門に聖道門の論理を持ち込んで、これこそが親鸞聖人の正しい教えだということに対して非難をしているのです。


M野講師ではない氏

小釈迦とまで言われた龍樹菩薩でさえ救われない聖道門を何故釈尊は説かれたのでしょうか。しかも一切経のほとんどを費やしてまで。
これが弥陀の救いに無関係ならば不可解極まりないことなのですが。


飛雲氏

聖道門でも成仏できます。ただし、正法の時期であれば、と親鸞会でも教えている筈です。
龍樹菩薩は像法の方ですので、聖道門で仏のさとりまで到達することができなかったというのも、釈尊が教えられた通りと言えます。
前回詳しく書いたつもりですが、御理解頂けていないようですので、再度説明させて頂きます。
外道を信じている人を仏教へ導くためには、因果の道理に従って、善を修することで仏になることができるという聖道門は、信じやすい教えです。当然なことですが、釈尊が仏になられる前に、仏教はありませんでした。外道を信じている人しかいませんので、聖道門の教えが中心になるのも致し方ないことと考えます。しかし、先ほど述べたように末法の我々には、修行にたえることができません。それで、成仏を断念した人のために、浄土往生によって成仏という道のあることを示されます。ただし、すべて他力と言われると、聖道門とのギャップが余りにも大き過ぎますので、修善という自力に阿弥陀仏のお力を賜わって往生するという観無量寿経を釈尊は説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられました。しかし、それは、あくまで浄土を願わせるための方便であり、真実の絶対他力18願へ導くためのステップの願と教えられたのが親鸞聖人です。
18願に入るためには19願を必ず通らなければならないと高森会長が教えていますが、それは18願を信じることができず18願で救われたいと思わない人に対しては、正しいといってもよいかも知れません。しかしすでに18願で救われたいと思っている人に対して、19願からスタートせよということではないことは、常識的に考えればお判り頂けるのではないかと思います。


M野講師ではない氏

平生の一念で無条件で救う18願と善が必要で死後でしか救われない19願では、誰しも18願を信じ18願で救われたいと思うのではないのでしょうか。
が、現実は18願で救われている人は非常に少ないです。そこまで導くための19,20願という親鸞会の主張の方が説得力があるように思うのですが。


飛雲氏

18願での救いを求めても救われていないのに、19願、20願の行をすることがより遠回りになると思われないのでしょうか。
親鸞聖人が定散二善を、迂回の善と仰った通りです。自力念仏を厳しく戒められた通りです。

親鸞聖人の教えられたことと高森会長の教えが違うと言っているのであって、高森宗という新しい宗派のことを論じているのではありません。

親鸞聖人、蓮如上人のお言葉での議論なら意味がありますが、高森会長の言葉で議論しても、それは浄土真宗という土俵を外れていますので、議論になりません。

私は親鸞会で20数年遠回りをさせられました。しかし、19願の修善は捨てるべきものという親鸞聖人の正しい教えを知り、18願での救いを正しく聞いて、他力に帰すことができました。


M野講師ではない氏

19、20願の行をすることがより遠回りとなるのなら、何故、弥陀は十方衆生相手に19願、20願を建てられたのでしょうか。


飛雲氏


前のコメントの通りです。

『教行信証』化土巻の要門釈についても前回書きました。

読まれたのですか?
親鸞聖人の教えられたことがおかしいと言われるのであれば、当然ながら浄土真宗ではありません。


一応お知らせしておきますが、19願、20願の十方衆生と18願の十方衆生とは意味が違うと
「21世紀の浄土真宗を考える会」
生因三願の「十方衆生」についての考察
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-180.html
十方衆生とはいうものの…
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-386.html

に解説があります。
読まれるとよいでしょう。


反親鸞会A氏

1つだけ質問しておきましょう。
親鸞聖人が19願を勧められたお言葉を出して下さい。
念の為申しておきますが、19願の意味は善を修めることですというような説明と19願を勧められたこととの違いは判りますよね。
観経でいえば、顕説と隠彰の違いも、当然理解されている筈と言う前提で質問しています。

もし意味が判らなければ、このブログを初めからしっかり読むか、親鸞会教義の誤りを十分に理解してからきて下さい。


M野講師ではない氏

理解出来ていますよ。
のコメントは2つ上のことについてです。
高森先生こそ親鸞聖人の御心を最も顕かになされた御方だと大尊敬致しておりますので。


反親鸞会A氏

親鸞聖人のお言葉と反することを教えている高森会長が、親鸞聖人の御心を顕かにしたとは笑えますね。その根拠は出せない訳ですね。

文底秘沈といっているどこかの団体を馬鹿にしていますが、親鸞会も同じですよ。


M野講師ではない氏

皆さん、お待たせしました。

如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり(正像末和讃)


この「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」(20願)へ導くためです。
なお、私はM野支部長でも講師部員でもありません。世間の仕事に従事しながら聞法している単なる(お粗末で不真面目な)会員です。私を立派なM野支部長と間違えるのは、M野支部長に失礼ですよ。

親鸞聖人が19願を勧められた根拠はあるのか 2

信罪福心は自力であり、19願の勧めではないより

飛雲氏

以下のコメントを頂きました。
如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり(正像末和讃)
この「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」(20願)へ導くためです。
この御和讃が19願を勧められた親鸞聖人のお言葉といわれるのですが、どうしてそのような解釈になるのか不思議です。
ちなみに、この御和讃は『正像末和讃』の中の誡疑讃と呼ばれる23首のうちの1首です。この誡疑讃の最後に
以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。
と親鸞聖人は書いておられます。仏智疑惑の罪の重いことを教えられるための御和讃ということです。仏智疑惑があるうちは、化土にしか往けないと厳しく厳しく誡められたものです。一切衆生必堕無間と脅されている親鸞会会員からすれば、化土へ往けるのなら本望ではないかと思われるかもしれませんが、親鸞聖人にはそのようなお考えは全くないのです。
前後の御和讃を紹介すれば、
自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば
 大慈大悲はえざりけり

本願疑惑の行者には
 含花未出のひともあり
 或生辺地ときらひつつ
 或堕宮胎とすてらるる

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

仏智を疑惑するゆゑに
 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを
 牢獄にいるとたとへたり

七宝の宮殿にうまれては
 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ
 有情利益はさらになし

辺地七宝の宮殿に
 五百歳までいでずして
 みづから過咎をなさしめて
 もろもろの厄をうくるなり

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり
と19願自力修善と20願自力念仏を厳しく誡めておられるのがお判り頂けると思います。
信罪福心とは、因果の道理を信じる心であり、因果の道理から善を修したり念仏を称える心、つまり自力心です。
『教行信証』化土巻真門釈に
定散之専心者、罪福を信ずる心を以て本願力を願求す、是を自力の専心と名くる也。
とあります。信罪福心は自力の心であるから捨てよと仰っているのです。因果の道理を強調する親鸞会とは全く反対です。
『浄土三経往生文類』にも
此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して其の国に生んと願ぜむ、此の諸の衆生彼の宮殿に生まれて寿五百歳ならむに、常に仏を見たてまつらず(中略)之を胎生と謂ふ。
とあります。すべて20願自力念仏の誡めです。

コメントで出された御和讃も20願自力念仏を誡められたものであるのですが、断章取義して20願自力念仏を勧められたと理解させようとの意図でしょうか。

いずれにしても、それがどうして19願を勧められた根拠になるのか、その思考がさっぱり理解できません。

高森会長は、親鸞聖人が捨てよと仰るものを会員に必死に拾わせようとしています。
親鸞聖人の教えをネジ曲げて平然としている念仏誹謗の有情はかわいそうです。

もしこのコメントを書かれた方が、皆さんのいわれるようにM野支部長であるとすれば、極めて残念なことです。

親鸞聖人が19願を勧められた根拠はあるのか 3

「典型的な断章取義教学」のコメント欄より

M野講師ではない氏

19願は修諸功徳の願と言って平たくいうと「善をやりなさい。そうすれば助ける。」という願です。
つまり廃悪修善を勧めた願です。
どれだけ廃悪修善に向かえるかは因果の道理をどれだけ深く信じているかにかかっています。
その因果の道理を親鸞聖人は罪福という御言葉で教えられたのです。
罪福ふかく信じたならそれは必ず善の実行となってあらわれます。
もし、19願が単に浄土を願わせるためだけの願ならば、別段、ふかく信ぜしめる必要はありません。


反親鸞会A氏

懲りない人ですね。
『大無量寿経』胎化段にあるお言葉を、『浄土三経往生文類』にも引かれて、それを管理人さんはエントリーで紹介されました。その内容を御和讃で表現されたことが分からないとはね。
此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して

如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり
比較しろよな。どうしてこれが19願になるの。
もう少し言えば、
罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり
これも19願か。
立派なM野支部長ともう少し無い智慧を絞れよ。

教学力がないでしょうから補足説明すれば、
此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して
これは20願成就文です。



反親鸞会B氏

現役の人の主張・・・
「如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなをもまた
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり」
   この和讃は、①「十九願」を②「勧めた」和讃である。

この①②に対して、
1.十九願のことを言ってる和讃だ、という主張がおかしい
 →この和讃は「此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して」と
  20願に関連する言葉であるから。

2.十九願を「勧めている」という主張がおかしい
 →この和讃の前後含めて誡疑讃という、「本願を疑うこと=自力心、を誡めた和讃」だから
 「自力心を誡める」内容であって、「自力の善を行なえ」という和讃ではない

だから現役の人は「十九願はどういう願か」の講釈をする必要ない。

反論するなら
・「猶ほ罪福を信じて善本を修習して」という言葉を覆して
 この和讃が19願のことを言ったものである証拠を提示して反論する。
・疑いを誡めるための和讃という言葉を覆して、
 「19願で説かれた善を勧める」ものであるという証拠を提示して反論する。
これ以外の話をする必要はない。
色んなところで指摘されてるけど、親鸞会の人は「すぐ論点をすり替える」って言われてるし、
ちゃんと「"自分の提示した和讃"が19願のものかどうか、19願の善を勧めたものかどうか」という
論点からずれないで話をしてほしいもんだわ

親鸞聖人が19願を勧められた根拠はあるのか 4

実は、『正像末和讃』『浄土三経往生文類』も読んだことがありません、を追加より

飛雲氏

前回のエントリーに対して、以下の反論がありました。

19願は修諸功徳の願と言って平たくいうと「善をやりなさい。そうすれば助ける。」という願です。
つまり廃悪修善を勧めた願です。
どれだけ廃悪修善に向かえるかは因果の道理をどれだけ深く信じているかにかかっています。
その因果の道理を親鸞聖人は罪福という御言葉で教えられたのです。
罪福ふかく信じたならそれは必ず善の実行となってあらわれます。
もし、19願が単に浄土を願わせるためだけの願ならば、別段、ふかく信ぜしめる必要はありません。
前回は、勢いで書きましたので、説明不足のところがあったとはいえ、こんな幼稚な反論があるとは予想もしていませんでした。

『浄土三経往生文類』に、『大無量寿経』胎化段から引文されてあるのが前回紹介した以下の御文です。

此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して其の国に生んと願ぜむ、此の諸の衆生彼の宮殿に生まれて寿五百歳ならむに、常に仏を見たてまつらず(中略)之を胎生と謂ふ。
ここは、
弥陀経往生といふは
で始まる20願について書かれた部分です。『大無量寿経』胎化段を引文される前に、
願成就の文、『経』にのたまはく
と書かれています。
反親鸞会Aさんも指摘されているように、この御文は、20願成就文であります。
これと『正像末和讃』誡疑讃の
如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり
を比較してみれば一目瞭然ですが、言葉をかえて御和讃にされただけです。この御和讃だけ読めば、高森会長やその弟子のいうことが一理あるように錯覚しますが、『教行信証』『浄土三経往生文類』『正像末和讃』誡疑讃を読めば、全く正反対のことを親鸞聖人が教えられていることが分かります。
19願と関係付けるための強引な理論には、いつもながら感心します。

なお、『往生要集』には、
問ふ、若し深信無くして疑念を生ずる者は終に往生せざるや。
答ふ、若し全く信ぜず。彼業を修せず、願求せずば理として生るべからず。若し仏智を疑と雖も爾も猶彼土を願ひ、彼の業を修するは亦往生することを得。『双巻経』に云ふが如し。若し衆生有りて(中略)此の諸智に於て、疑惑して信ぜず。然も猶罪福を信じて善本を修習して其の国に生せんと願せん。此の衆生、彼の宮殿生まれて、寿五百歳常に仏を見たてまつらず。(中略)之を胎生と謂ふと。仏の智慧を疑ふ罪は悪道に当たれり。然れども願に随いて往生するは是れ仏の悲願力なり。
とあります。仏智疑惑は悪道に堕する罪ではあるが、因果の道理を信じて念仏を称えれば、阿弥陀仏の悲願力によって化土往生できる、と教えられています。
しかし、親鸞聖人は徹底して、化土往生を誡めておられます。19願を勧められたなど、もっての外の邪義です。
親鸞会は、断章取義で貫かれています。

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