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親鸞会法論惨敗の記録4~飛雲より

浄土真宗親鸞会のM野講師ではない、と強く否定する1会員を名乗る人物と、飛雲氏及び親鸞会批判者との法論の記録です。 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」での内容を転載したもので、親鸞会の1会員を名乗る人物の敗走で終わっています。

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親鸞聖人が19願を勧められた根拠はあるのか 2

信罪福心は自力であり、19願の勧めではないより

飛雲氏

以下のコメントを頂きました。
如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり(正像末和讃)
この「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」(20願)へ導くためです。
この御和讃が19願を勧められた親鸞聖人のお言葉といわれるのですが、どうしてそのような解釈になるのか不思議です。
ちなみに、この御和讃は『正像末和讃』の中の誡疑讃と呼ばれる23首のうちの1首です。この誡疑讃の最後に
以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。
と親鸞聖人は書いておられます。仏智疑惑の罪の重いことを教えられるための御和讃ということです。仏智疑惑があるうちは、化土にしか往けないと厳しく厳しく誡められたものです。一切衆生必堕無間と脅されている親鸞会会員からすれば、化土へ往けるのなら本望ではないかと思われるかもしれませんが、親鸞聖人にはそのようなお考えは全くないのです。
前後の御和讃を紹介すれば、
自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば
 大慈大悲はえざりけり

本願疑惑の行者には
 含花未出のひともあり
 或生辺地ときらひつつ
 或堕宮胎とすてらるる

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

仏智を疑惑するゆゑに
 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを
 牢獄にいるとたとへたり

七宝の宮殿にうまれては
 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ
 有情利益はさらになし

辺地七宝の宮殿に
 五百歳までいでずして
 みづから過咎をなさしめて
 もろもろの厄をうくるなり

罪福ふかく信じつつ
 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに
 方便化土にとまるなり
と19願自力修善と20願自力念仏を厳しく誡めておられるのがお判り頂けると思います。
信罪福心とは、因果の道理を信じる心であり、因果の道理から善を修したり念仏を称える心、つまり自力心です。
『教行信証』化土巻真門釈に
定散之専心者、罪福を信ずる心を以て本願力を願求す、是を自力の専心と名くる也。
とあります。信罪福心は自力の心であるから捨てよと仰っているのです。因果の道理を強調する親鸞会とは全く反対です。
『浄土三経往生文類』にも
此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して其の国に生んと願ぜむ、此の諸の衆生彼の宮殿に生まれて寿五百歳ならむに、常に仏を見たてまつらず(中略)之を胎生と謂ふ。
とあります。すべて20願自力念仏の誡めです。

コメントで出された御和讃も20願自力念仏を誡められたものであるのですが、断章取義して20願自力念仏を勧められたと理解させようとの意図でしょうか。

いずれにしても、それがどうして19願を勧められた根拠になるのか、その思考がさっぱり理解できません。

高森会長は、親鸞聖人が捨てよと仰るものを会員に必死に拾わせようとしています。
親鸞聖人の教えをネジ曲げて平然としている念仏誹謗の有情はかわいそうです。

もしこのコメントを書かれた方が、皆さんのいわれるようにM野支部長であるとすれば、極めて残念なことです。

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