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親鸞会法論惨敗の記録4~飛雲より

浄土真宗親鸞会のM野講師ではない、と強く否定する1会員を名乗る人物と、飛雲氏及び親鸞会批判者との法論の記録です。 「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」での内容を転載したもので、親鸞会の1会員を名乗る人物の敗走で終わっています。

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親鸞聖人が19願を勧められた根拠はあるのか 1

「典型的な断章取義教学」のコメント欄より


M野講師ではないM野講師を尊敬する一会員を名乗る人物
(以下、M野講師ではない氏 とする)

聖道門も大聖釈尊が説きたもうた尊い法ですよ。



飛雲氏

聖道門も実践できる人には、正しい教えです。
しかし、悲しいかな末法の我々には、聖道門の修行にたえることができません。
そんな人のために浄土門があり、阿弥陀仏が本願を建ててくださいました。
聖道門の修行をされたい尊い方を非難するつもりは毛頭ありません。
ただ、浄土門に聖道門の論理を持ち込んで、これこそが親鸞聖人の正しい教えだということに対して非難をしているのです。


M野講師ではない氏

小釈迦とまで言われた龍樹菩薩でさえ救われない聖道門を何故釈尊は説かれたのでしょうか。しかも一切経のほとんどを費やしてまで。
これが弥陀の救いに無関係ならば不可解極まりないことなのですが。


飛雲氏

聖道門でも成仏できます。ただし、正法の時期であれば、と親鸞会でも教えている筈です。
龍樹菩薩は像法の方ですので、聖道門で仏のさとりまで到達することができなかったというのも、釈尊が教えられた通りと言えます。
前回詳しく書いたつもりですが、御理解頂けていないようですので、再度説明させて頂きます。
外道を信じている人を仏教へ導くためには、因果の道理に従って、善を修することで仏になることができるという聖道門は、信じやすい教えです。当然なことですが、釈尊が仏になられる前に、仏教はありませんでした。外道を信じている人しかいませんので、聖道門の教えが中心になるのも致し方ないことと考えます。しかし、先ほど述べたように末法の我々には、修行にたえることができません。それで、成仏を断念した人のために、浄土往生によって成仏という道のあることを示されます。ただし、すべて他力と言われると、聖道門とのギャップが余りにも大き過ぎますので、修善という自力に阿弥陀仏のお力を賜わって往生するという観無量寿経を釈尊は説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられました。しかし、それは、あくまで浄土を願わせるための方便であり、真実の絶対他力18願へ導くためのステップの願と教えられたのが親鸞聖人です。
18願に入るためには19願を必ず通らなければならないと高森会長が教えていますが、それは18願を信じることができず18願で救われたいと思わない人に対しては、正しいといってもよいかも知れません。しかしすでに18願で救われたいと思っている人に対して、19願からスタートせよということではないことは、常識的に考えればお判り頂けるのではないかと思います。


M野講師ではない氏

平生の一念で無条件で救う18願と善が必要で死後でしか救われない19願では、誰しも18願を信じ18願で救われたいと思うのではないのでしょうか。
が、現実は18願で救われている人は非常に少ないです。そこまで導くための19,20願という親鸞会の主張の方が説得力があるように思うのですが。


飛雲氏

18願での救いを求めても救われていないのに、19願、20願の行をすることがより遠回りになると思われないのでしょうか。
親鸞聖人が定散二善を、迂回の善と仰った通りです。自力念仏を厳しく戒められた通りです。

親鸞聖人の教えられたことと高森会長の教えが違うと言っているのであって、高森宗という新しい宗派のことを論じているのではありません。

親鸞聖人、蓮如上人のお言葉での議論なら意味がありますが、高森会長の言葉で議論しても、それは浄土真宗という土俵を外れていますので、議論になりません。

私は親鸞会で20数年遠回りをさせられました。しかし、19願の修善は捨てるべきものという親鸞聖人の正しい教えを知り、18願での救いを正しく聞いて、他力に帰すことができました。


M野講師ではない氏

19、20願の行をすることがより遠回りとなるのなら、何故、弥陀は十方衆生相手に19願、20願を建てられたのでしょうか。


飛雲氏


前のコメントの通りです。

『教行信証』化土巻の要門釈についても前回書きました。

読まれたのですか?
親鸞聖人の教えられたことがおかしいと言われるのであれば、当然ながら浄土真宗ではありません。


一応お知らせしておきますが、19願、20願の十方衆生と18願の十方衆生とは意味が違うと
「21世紀の浄土真宗を考える会」
生因三願の「十方衆生」についての考察
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-180.html
十方衆生とはいうものの…
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-386.html

に解説があります。
読まれるとよいでしょう。


反親鸞会A氏

1つだけ質問しておきましょう。
親鸞聖人が19願を勧められたお言葉を出して下さい。
念の為申しておきますが、19願の意味は善を修めることですというような説明と19願を勧められたこととの違いは判りますよね。
観経でいえば、顕説と隠彰の違いも、当然理解されている筈と言う前提で質問しています。

もし意味が判らなければ、このブログを初めからしっかり読むか、親鸞会教義の誤りを十分に理解してからきて下さい。


M野講師ではない氏

理解出来ていますよ。
のコメントは2つ上のことについてです。
高森先生こそ親鸞聖人の御心を最も顕かになされた御方だと大尊敬致しておりますので。


反親鸞会A氏

親鸞聖人のお言葉と反することを教えている高森会長が、親鸞聖人の御心を顕かにしたとは笑えますね。その根拠は出せない訳ですね。

文底秘沈といっているどこかの団体を馬鹿にしていますが、親鸞会も同じですよ。


M野講師ではない氏

皆さん、お待たせしました。

如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり(正像末和讃)


この「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」(20願)へ導くためです。
なお、私はM野支部長でも講師部員でもありません。世間の仕事に従事しながら聞法している単なる(お粗末で不真面目な)会員です。私を立派なM野支部長と間違えるのは、M野支部長に失礼ですよ。

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