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  <title type="text">親鸞会法論惨敗の記録４～飛雲より</title>
  <subtitle type="html">浄土真宗親鸞会のM野講師ではない、と強く否定する１会員を名乗る人物と、飛雲氏及び親鸞会批判者との法論の記録です。
「飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~」での内容を転載したもので、親鸞会の１会員を名乗る人物の敗走で終わっています。</subtitle>
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  <updated>2013-06-03T08:46:52+09:00</updated>
  <author><name>shinrankaiuso</name></author>
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    <published>2013-06-03T20:37:10+09:00</published> 
    <updated>2013-06-03T20:37:10+09:00</updated> 
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    <title>はじめに</title>
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      <![CDATA[このブログは、浄土真宗親鸞会とその批判者との間で2010年2月19日から行われた法論の記録です。<br /><br />内容は、<br /><blockquote style=""><div><span style="line-height: 1.4;"><span style="color:#660000;">如来の諸智を疑惑して</span></span></div><div>　<span style="color:#660000;">信ぜずながらなをもまた</span></div><div>　<span style="color:#660000;">罪福ふかく信ぜしめ</span></div><div><span style="line-height: 1.4;">　<span style="color:#660000;">善本修習すぐれたり</span>（正像末和讃）</span></div></blockquote>が、親鸞聖人が１９願を勧められた根拠になるのか、というものでした。<br /><br />原文は「<a href="http://hiun.cocolog-nifty.com/" target="_blank" title="">飛雲　～親鸞会の邪義を通して～</a>」というブログにあります。<br /><br />浄土真宗親鸞会所属のM野講師ではないと強く否定する、１会員を名乗る人物が「<a href="http://hiun.cocolog-nifty.com/" target="_blank" title="">飛雲　～親鸞会の邪義を通して～</a>」にコメントしてきたことから法論が始まりました。<br /><br />ただし、すぐに法論自体は決着しています。<br /><br />浄土真宗親鸞会所属のM野講師ではないと強く否定する、１会員を名乗る人物が、論点をすり替えて、挙句の果てに逃亡しています。<br /><br />ここでは、コメント欄とエントリーとが入り混じり、コメント参加者も数人いましたので、読みやすくするため、関係のあるコメントとエントリーのみを抜粋しています。<br /><br />省略したコメント等もご覧になりたい場合は、リンク先でご確認下さい。<br />]]> 
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    <published>2013-06-03T20:18:56+09:00</published> 
    <updated>2013-06-03T20:18:56+09:00</updated> 
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    <title>親鸞聖人が１９願を勧められた根拠はあるのか　１</title>
    <content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="utf-8"> 
      <![CDATA[<a href="http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-0fa0.html" target="_blank" title="">「典型的な断章取義教学」のコメント欄</a>より<br /><br /><br /><span style="font-size: large;">Ｍ野講師ではないＭ野講師を尊敬する一会員を名乗る人物<br />（以下、Ｍ野講師ではない氏　とする）<br /></span><br /><blockquote style="">聖道門も大聖釈尊が説きたもうた尊い法ですよ。</blockquote><br /><br /><br /><span style="font-size: large;">飛雲氏</span><br /><br /><blockquote style="">聖道門も実践できる人には、正しい教えです。<br />しかし、悲しいかな末法の我々には、聖道門の修行にたえることができません。<br />そんな人のために浄土門があり、阿弥陀仏が本願を建ててくださいました。<br />聖道門の修行をされたい尊い方を非難するつもりは毛頭ありません。<br />ただ、浄土門に聖道門の論理を持ち込んで、これこそが親鸞聖人の正しい教えだということに対して非難をしているのです。</blockquote><br /><br /><span style="font-size: large;">Ｍ野講師ではない氏</span><br /><br /><blockquote style="">小釈迦とまで言われた龍樹菩薩でさえ救われない聖道門を何故釈尊は説かれたのでしょうか。しかも一切経のほとんどを費やしてまで。<br />これが弥陀の救いに無関係ならば不可解極まりないことなのですが。</blockquote><br /><br /><span style="font-size: large;">飛雲氏</span><br /><br /><blockquote style="">聖道門でも成仏できます。ただし、正法の時期であれば、と親鸞会でも教えている筈です。<br />龍樹菩薩は像法の方ですので、聖道門で仏のさとりまで到達することができなかったというのも、釈尊が教えられた通りと言えます。</blockquote><blockquote style="">前回詳しく書いたつもりですが、御理解頂けていないようですので、再度説明させて頂きます。<br />外道を信じている人を仏教へ導くためには、因果の道理に従って、善を修することで仏になることができるという聖道門は、信じやすい教えです。当然なことですが、釈尊が仏になられる前に、仏教はありませんでした。外道を信じている人しかいませんので、聖道門の教えが中心になるのも致し方ないことと考えます。しかし、先ほど述べたように末法の我々には、修行にたえることができません。それで、成仏を断念した人のために、浄土往生によって成仏という道のあることを示されます。ただし、すべて他力と言われると、聖道門とのギャップが余りにも大き過ぎますので、修善という自力に阿弥陀仏のお力を賜わって往生するという観無量寿経を釈尊は説かれ、阿弥陀仏は１９願を建てられました。しかし、それは、あくまで浄土を願わせるための方便であり、真実の絶対他力１８願へ導くためのステップの願と教えられたのが親鸞聖人です。</blockquote><blockquote style="">１８願に入るためには１９願を必ず通らなければならないと高森会長が教えていますが、それは１８願を信じることができず１８願で救われたいと思わない人に対しては、正しいといってもよいかも知れません。しかしすでに１８願で救われたいと思っている人に対して、１９願からスタートせよということではないことは、常識的に考えればお判り頂けるのではないかと思います。</blockquote><br /><br /><span style="font-size: large;">Ｍ野講師ではない氏</span><br /><br /><blockquote style="">平生の一念で無条件で救う18願と善が必要で死後でしか救われない19願では、誰しも18願を信じ18願で救われたいと思うのではないのでしょうか。<br />が、現実は18願で救われている人は非常に少ないです。そこまで導くための19,20願という親鸞会の主張の方が説得力があるように思うのですが。</blockquote><br /><br /><span style="line-height: 1.4;"><span style="font-size: large;">飛雲氏</span></span><br /><br /><blockquote style="">１８願での救いを求めても救われていないのに、１９願、２０願の行をすることがより遠回りになると思われないのでしょうか。</blockquote><blockquote style="">親鸞聖人が定散二善を、迂回の善と仰った通りです。自力念仏を厳しく戒められた通りです。</blockquote><br /><blockquote style="">親鸞聖人の教えられたことと高森会長の教えが違うと言っているのであって、高森宗という新しい宗派のことを論じているのではありません。<br /><br />親鸞聖人、蓮如上人のお言葉での議論なら意味がありますが、高森会長の言葉で議論しても、それは浄土真宗という土俵を外れていますので、議論になりません。<br /><br />私は親鸞会で２０数年遠回りをさせられました。しかし、１９願の修善は捨てるべきものという親鸞聖人の正しい教えを知り、１８願での救いを正しく聞いて、他力に帰すことができました。</blockquote><br /><br /><span style="font-size: large;">Ｍ野講師ではない氏</span><br /><br /><blockquote style="">１９、２０願の行をすることがより遠回りとなるのなら、何故、弥陀は十方衆生相手に１９願、２０願を建てられたのでしょうか。</blockquote><br /><span style="line-height: 1.4;"><br /><span style="font-size: large;">飛雲氏</span></span><br /><br /><blockquote style="">前のコメントの通りです。<br /><br />『教行信証』化土巻の要門釈についても前回書きました。<br /><br />読まれたのですか？<br />親鸞聖人の教えられたことがおかしいと言われるのであれば、当然ながら浄土真宗ではありません。</blockquote><br /><br /><blockquote style="">一応お知らせしておきますが、１９願、２０願の十方衆生と１８願の十方衆生とは意味が違うと</blockquote><blockquote style="">「２１世紀の浄土真宗を考える会」<br />生因三願の「十方衆生」についての考察<br />http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-180.html<br />十方衆生とはいうものの…<br />http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-386.html<br /><br />に解説があります。<br />読まれるとよいでしょう。</blockquote><br /><br /><span style="font-size: large;">反親鸞会Ａ氏</span><br /><br /><blockquote style="">１つだけ質問しておきましょう。<br />親鸞聖人が１９願を勧められたお言葉を出して下さい。<br />念の為申しておきますが、１９願の意味は善を修めることですというような説明と１９願を勧められたこととの違いは判りますよね。<br />観経でいえば、顕説と隠彰の違いも、当然理解されている筈と言う前提で質問しています。<br /><br />もし意味が判らなければ、このブログを初めからしっかり読むか、親鸞会教義の誤りを十分に理解してからきて下さい。</blockquote><br /><br /><span style="font-size: large;">Ｍ野講師ではない氏</span><br /><br /><blockquote style="">理解出来ていますよ。<br />のコメントは２つ上のことについてです。<br />高森先生こそ親鸞聖人の御心を最も顕かになされた御方だと大尊敬致しておりますので。</blockquote><br /><br /><span style="font-size: large;">反親鸞会Ａ氏</span><br /><br /><blockquote style="">親鸞聖人のお言葉と反することを教えている高森会長が、親鸞聖人の御心を顕かにしたとは笑えますね。その根拠は出せない訳ですね。<br /><br />文底秘沈といっているどこかの団体を馬鹿にしていますが、親鸞会も同じですよ。</blockquote><br /><br /><span style="font-size: large;">Ｍ野講師ではない氏</span><br /><br /><blockquote style="">皆さん、お待たせしました。<br /><br /><span style="color:#660000;">如来の諸智を疑惑して<br />信ぜずながらなをもまた<br />罪福ふかく信ぜしめ<br />善本修習すぐれたり（正像末和讃）</span><br /><br />この「罪福ふかく信ぜしめ」が１９願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」（２０願）へ導くためです。<br />なお、私はＭ野支部長でも講師部員でもありません。世間の仕事に従事しながら聞法している単なる（お粗末で不真面目な）会員です。私を立派なＭ野支部長と間違えるのは、Ｍ野支部長に失礼ですよ。</blockquote><br />]]> 
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    <published>2013-06-03T20:11:12+09:00</published> 
    <updated>2013-06-03T20:11:12+09:00</updated> 
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    <title>親鸞聖人が１９願を勧められた根拠はあるのか　２</title>
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      <![CDATA[<span style="line-height: 1.4;"><a href="http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-66dd.html" target="_blank" title="">信罪福心は自力であり、１９願の勧めではない</a>より</span><br /><br /><span style="font-size: large;">飛雲氏</span><br /><br /><blockquote style="">以下のコメントを頂きました。<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">如来の諸智を疑惑して<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">信ぜずながらなをもまた<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">罪福ふかく信ぜしめ<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">善本修習すぐれたり（正像末和讃）</span></blockquote><blockquote style="">この「罪福ふかく信ぜしめ」が１９願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」（２０願）へ導くためです。</blockquote></blockquote><blockquote style="">この御和讃が１９願を勧められた親鸞聖人のお言葉といわれるのですが、どうしてそのような解釈になるのか不思議です。<br />ちなみに、この御和讃は『正像末和讃』の中の誡疑讃と呼ばれる２３首のうちの１首です。この誡疑讃の最後に<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。</span></blockquote></blockquote><blockquote style="">と親鸞聖人は書いておられます。仏智疑惑の罪の重いことを教えられるための御和讃ということです。仏智疑惑があるうちは、化土にしか往けないと厳しく厳しく誡められたものです。一切衆生必堕無間と脅されている親鸞会会員からすれば、化土へ往けるのなら本望ではないかと思われるかもしれませんが、親鸞聖人にはそのようなお考えは全くないのです。<br />前後の御和讃を紹介すれば、<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">自力諸善のひとはみな<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　仏智の不思議をうたがへば<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　自業自得の道理にて<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　七宝の獄にぞいりにける<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;"><br />仏智不思議をうたがひて<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　善本・徳本たのむひと<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　辺地懈慢にうまるれば<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　大慈大悲はえざりけり<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;"><br />本願疑惑の行者には<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　含花未出のひともあり<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　或生辺地ときらひつつ<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　或堕宮胎とすてらるる<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;"><br />如来の諸智を疑惑して<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　信ぜずながらなほもまた<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　罪福ふかく信ぜしめ<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　善本修習すぐれたり<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;"><br />仏智を疑惑するゆゑに<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　胎生のものは智慧もなし<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　胎宮にかならずうまるるを<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　牢獄にいるとたとへたり<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;"><br />七宝の宮殿にうまれては<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　五百歳のとしをへて<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　三宝を見聞せざるゆゑ<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　有情利益はさらになし<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;"><br />辺地七宝の宮殿に<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　五百歳までいでずして<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　みづから過咎をなさしめて<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　もろもろの厄をうくるなり<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;"><br />罪福ふかく信じつつ<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　善本修習するひとは<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　疑心の善人なるゆゑに<br /></span><span style="color: rgb(102, 0, 0); line-height: 1.4;">　方便化土にとまるなり</span></blockquote></blockquote><blockquote style="">と１９願自力修善と２０願自力念仏を厳しく誡めておられるのがお判り頂けると思います。<br />信罪福心とは、因果の道理を信じる心であり、因果の道理から善を修したり念仏を称える心、つまり自力心です。<br />『教行信証』化土巻真門釈に<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">定散之専心者、罪福を信ずる心を以て本願力を願求す、是を自力の専心と名くる也。</span></blockquote></blockquote><blockquote style="">とあります。信罪福心は自力の心であるから捨てよと仰っているのです。因果の道理を強調する親鸞会とは全く反対です。<br />『浄土三経往生文類』にも<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して其の国に生んと願ぜむ、此の諸の衆生彼の宮殿に生まれて寿五百歳ならむに、常に仏を見たてまつらず（中略）之を胎生と謂ふ。</span></blockquote></blockquote><blockquote style="">とあります。すべて２０願自力念仏の誡めです。<br /><br />コメントで出された御和讃も２０願自力念仏を誡められたものであるのですが、断章取義して２０願自力念仏を勧められたと理解させようとの意図でしょうか。<br /><br />いずれにしても、それがどうして１９願を勧められた根拠になるのか、その思考がさっぱり理解できません。<br /><br />高森会長は、親鸞聖人が捨てよと仰るものを会員に必死に拾わせようとしています。<br />親鸞聖人の教えをネジ曲げて平然としている念仏誹謗の有情はかわいそうです。<br /><br />もしこのコメントを書かれた方が、皆さんのいわれるようにＭ野支部長であるとすれば、極めて残念なことです。</blockquote><br />]]> 
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    <published>2013-06-03T20:00:44+09:00</published> 
    <updated>2013-06-03T20:00:44+09:00</updated> 
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    <title>親鸞聖人が１９願を勧められた根拠はあるのか　３</title>
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      <![CDATA[<a href="http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-0fa0.html" target="_blank">「典型的な断章取義教学」のコメント欄</a>より<br /><br /><span style="font-size:large;">Ｍ野講師ではない氏</span><br /><br /><blockquote style="">１９願は修諸功徳の願と言って平たくいうと「善をやりなさい。そうすれば助ける。」という願です。<br />つまり廃悪修善を勧めた願です。<br />どれだけ廃悪修善に向かえるかは因果の道理をどれだけ深く信じているかにかかっています。<br />その因果の道理を親鸞聖人は罪福という御言葉で教えられたのです。<br />罪福ふかく信じたならそれは必ず善の実行となってあらわれます。<br />もし、１９願が単に浄土を願わせるためだけの願ならば、別段、ふかく信ぜしめる必要はありません。</blockquote><br /><br /><span style="font-size: large;">反親鸞会Ａ氏</span><br /><br /><blockquote style="">懲りない人ですね。<br />『大無量寿経』胎化段にあるお言葉を、『浄土三経往生文類』にも引かれて、それを管理人さんはエントリーで紹介されました。その内容を御和讃で表現されたことが分からないとはね。<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して<br /><span style="line-height: 1.4;"><br />如来の諸智を疑惑して　信ぜずながらなをもまた<br /></span><span style="line-height: 1.4;">罪福ふかく信ぜしめ　善本修習すぐれたり</span></span></blockquote></blockquote><blockquote style="">比較しろよな。どうしてこれが１９願になるの。<br />もう少し言えば、<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">罪福ふかく信じつつ　善本修習するひとは<br /><span style="line-height: 1.4;">疑心の善人なるゆゑに　方便化土にとまるなり</span></span></blockquote></blockquote><blockquote style="">これも１９願か。<br />立派なＭ野支部長ともう少し無い智慧を絞れよ。<br /><br />教学力がないでしょうから補足説明すれば、<br />此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して<br />これは２０願成就文です。</blockquote><br /><br /><br /><span style="font-size: large;">反親鸞会Ｂ氏</span><br /><br /><blockquote style="">現役の人の主張・・・<br />「如来の諸智を疑惑して　信ぜずながらなをもまた<br />　罪福ふかく信ぜしめ　善本修習すぐれたり」<br />　　　この和讃は、①「十九願」を②「勧めた」和讃である。<br /><br />この①②に対して、<br />１．十九願のことを言ってる和讃だ、という主張がおかしい<br />　→この和讃は「此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して」と<br />　　２０願に関連する言葉であるから。<br /><br />２．十九願を「勧めている」という主張がおかしい<br />　→この和讃の前後含めて誡疑讃という、「本願を疑うこと＝自力心、を誡めた和讃」だから<br />　「自力心を誡める」内容であって、「自力の善を行なえ」という和讃ではない<br /><br />だから現役の人は「十九願はどういう願か」の講釈をする必要ない。<br /><br />反論するなら<br />・「猶ほ罪福を信じて善本を修習して」という言葉を覆して<br />　この和讃が１９願のことを言ったものである証拠を提示して反論する。<br />・疑いを誡めるための和讃という言葉を覆して、<br />　「１９願で説かれた善を勧める」ものであるという証拠を提示して反論する。<br />これ以外の話をする必要はない。<br />色んなところで指摘されてるけど、親鸞会の人は「すぐ論点をすり替える」って言われてるし、<br />ちゃんと「"自分の提示した和讃"が１９願のものかどうか、１９願の善を勧めたものかどうか」という<br />論点からずれないで話をしてほしいもんだわ</blockquote><br />]]> 
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    <published>2013-06-03T19:56:30+09:00</published> 
    <updated>2013-06-03T19:56:30+09:00</updated> 
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    <title>親鸞聖人が１９願を勧められた根拠はあるのか　４</title>
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      <![CDATA[<a href="http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-cfa9.html" target="_blank">実は、『正像末和讃』『浄土三経往生文類』も読んだことがありません、を追加</a>より<br /><br /><span style="font-size:large;">飛雲氏</span><br /><br /><blockquote style="">前回のエントリーに対して、以下の反論がありました。<br /><br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style="">１９願は修諸功徳の願と言って平たくいうと「善をやりなさい。そうすれば助ける。」という願です。</blockquote><blockquote style="">つまり廃悪修善を勧めた願です。</blockquote><blockquote style="">どれだけ廃悪修善に向かえるかは因果の道理をどれだけ深く信じているかにかかっています。</blockquote><blockquote style="">その因果の道理を親鸞聖人は罪福という御言葉で教えられたのです。</blockquote><blockquote style="">罪福ふかく信じたならそれは必ず善の実行となってあらわれます。</blockquote><blockquote style="">もし、１９願が単に浄土を願わせるためだけの願ならば、別段、ふかく信ぜしめる必要はありません。</blockquote></blockquote><blockquote style="">前回は、勢いで書きましたので、説明不足のところがあったとはいえ、こんな幼稚な反論があるとは予想もしていませんでした。<br /><br />『浄土三経往生文類』に、『大無量寿経』胎化段から引文されてあるのが前回紹介した以下の御文です。<br /><br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">此の諸智に於いて疑惑して信ぜず。然るに猶ほ罪福を信じて善本を修習して其の国に生んと願ぜむ、此の諸の衆生彼の宮殿に生まれて寿五百歳ならむに、常に仏を見たてまつらず（中略）之を胎生と謂ふ。</span></blockquote></blockquote><blockquote style="">ここは、<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">弥陀経往生といふは</span></blockquote></blockquote><blockquote style="">で始まる２０願について書かれた部分です。『大無量寿経』胎化段を引文される前に、<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">願成就の文、『経』にのたまはく</span></blockquote></blockquote><blockquote style="">と書かれています。<br />反親鸞会Aさんも指摘されているように、この御文は、２０願成就文であります。<br />これと『正像末和讃』誡疑讃の<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">如来の諸智を疑惑して<br /><span style="line-height: 1.4;">　信ぜずながらなほもまた<br /></span><span style="line-height: 1.4;">　罪福ふかく信ぜしめ<br /></span><span style="line-height: 1.4;">　善本修習すぐれたり</span></span></blockquote></blockquote><blockquote style="">を比較してみれば一目瞭然ですが、言葉をかえて御和讃にされただけです。この御和讃だけ読めば、高森会長やその弟子のいうことが一理あるように錯覚しますが、『教行信証』『浄土三経往生文類』『正像末和讃』誡疑讃を読めば、全く正反対のことを親鸞聖人が教えられていることが分かります。<br />１９願と関係付けるための強引な理論には、いつもながら感心します。<br /><br />なお、『往生要集』には、<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style="">問ふ、若し深信無くして疑念を生ずる者は終に往生せざるや。</blockquote><blockquote style="">答ふ、若し全く信ぜず。彼業を修せず、願求せずば理として生るべからず。若し仏智を疑と雖も爾も猶彼土を願ひ、彼の業を修するは亦往生することを得。『双巻経』に云ふが如し。若し衆生有りて（中略）此の諸智に於て、疑惑して信ぜず。然も猶罪福を信じて善本を修習して其の国に生せんと願せん。此の衆生、彼の宮殿生まれて、寿五百歳常に仏を見たてまつらず。（中略）之を胎生と謂ふと。仏の智慧を疑ふ罪は悪道に当たれり。然れども願に随いて往生するは是れ仏の悲願力なり。</blockquote></blockquote><blockquote style="">とあります。仏智疑惑は悪道に堕する罪ではあるが、因果の道理を信じて念仏を称えれば、阿弥陀仏の悲願力によって化土往生できる、と教えられています。<br />しかし、親鸞聖人は徹底して、化土往生を誡めておられます。１９願を勧められたなど、もっての外の邪義です。<br />親鸞会は、断章取義で貫かれています。</blockquote><br />]]> 
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    <published>2013-06-03T19:50:57+09:00</published> 
    <updated>2013-06-03T19:50:57+09:00</updated> 
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    <title>親鸞聖人が１９願を勧められた根拠はあるのか　５</title>
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      <![CDATA[<a href="http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-cfa9.html" target="_blank">「実は、『正像末和讃』『浄土三経往生文類』も読んだことがありません、を追加」のコメント</a>より<br /><br /><span style="font-size:large;">Ｍ野講師ではない氏</span><br /><br /><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">此の諸智に於て疑惑して信ぜず。然も猶ほ罪福を信じ、善本を修習して、・・・</span></blockquote></blockquote><blockquote style="">の前に<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">若し衆生有りて、疑惑の心を以て諸の功徳を修して、彼の国に生ぜんと願ぜん。佛智・不思議智・不可称智・大乗廣智・無等無倫最上勝智を了せず。</span></blockquote></blockquote><blockquote style="">とありますが、これらをまとめて表わされた御和讃と解釈すべきでしょう。<br /><br />信罪福心は因果の道理を信ずる心ですが、罪福を信じて諸の功徳に向いているのが１９願、名号に向いているのが２０願です。<br /><br />親鸞会を散々断章取義と非難する割には、それが自分のことと気づかないものですね。<br /><br />はやく１８願の世界に入ってもらいたいの御心からは、１９、２０願に留まっている人を厳しく戒めるのは当然です。が、１９願、２０願は必ず通らねばならない道だからこそ、久しく留まってしまう１９願を出て２０願に入った人を「善本修習すぐれたり」と評価なされておられるのです。<br /><br />１９、２０願を通らずに１８願に入れるのなら、２０願の人を、何故「善本修習すぐれたり」と言われるのですか。<br />なお、重ねて言っておきますが、私はＭ野支部長ではありません。幹部会員でもありません。何の役職もないただの１会員です。</blockquote><br /><br /><br /><span style="font-size: large;">反親鸞会Ａ氏</span><br /><br /><blockquote style="">見苦しい言い訳ですね。<br />あなたの言っている部分を含めて、２０願成就文と親鸞聖人は仰っています。<br /><br />読解力が不足しているようですから、サービスで解説しますと、仏智疑惑と信罪福心がセットになって他力と自力の違いで対比されているのです。本願の嘉号を己が善根とするのが自力念仏であり、因果の道理を信じて称えた念仏で助かろうとするものです。<br /><br />因果の道理を信じて念仏するが重要なポイントになるのです。単に念仏するではないのです。<br /><br />自力と他力の区別もつかないような理解では、親鸞聖人の教えなど語る資格はありませんね。<br /><br />１首の御和讃では４行でしか表わせません。「如来の諸智を疑惑して」いるのに、「善本修習すぐれたり」と思っていることを嘆かれたのです。それが、「なおもまた」のお言葉です。２０願成就文でいえば、「然るに猶ほ」です。<br /><br />『往生要集』では、「然も猶ほ」です。親鸞聖人の表現と源信僧都の表現の違いは、レベルの低い人には分からないでしょうが、「なおもまた」「然るに猶ほ」で、自力念仏を厳しく誡めるために、敢て読み方を変えられたのです。<br /><br />前後の御和讃を読めば明らかでしょう。それを断章取義と言うのですよ。<br />高森教の解釈など高森教内でしか通用しないのです。<br />今後も珍コメントして醜態を晒してよ。<br /><br />補足しますと、１９願、２０願に迷っている人に対して、それは間違いだぞと仰ったのが誡疑讃です。<br /><br />１９願、２０願を勧められた御和讃でないと散々言われていながら、捨てるためには必ず一度拾わなければならない、というヘンテコ理論でしか説明できないのがおかしいと思いなさいよ。迷っている人がいるから捨てよといわれるのであって、迷っていない人に一度必ず迷ってから戻ってこいと言われているのではない、と何度も何度も解説されているのに、本当に○が悪いのですね。<br /><br />浄土真宗と高森宗とは、全く別の宗なのです。高森宗は高森宗の話を勝手にしていればいいですが、浄土真宗とか親鸞聖人と関係があるようにいうのだけは辞めてもらいたい。</blockquote><br /><br /><br /><br /><span style="font-size: large;">反親鸞会Ｂ氏</span><br /><br /><blockquote style="">２０願成就文と御和讃を比較してみました。<br /><br />「此の諸智に於いて疑惑して」＝「如来の諸智を疑惑して」<br /><br />「信ぜず。然るに猶ほ」＝「信ぜずながらなほもまた」<br /><br />「罪福を信じて」＝「罪福ふかく信ぜしめ」<br /><br />「善本を修習して」＝「善本修習すぐれたり」<br /><br />「すぐれたり」を強調したいのでしょうが、ここは２０願の行人の気持ちです。<br /><br />教学に疎い私でも、国語能力があれば、これくらいわかりますよ、Ｍ野支部長（？）。<br />覚如上人も蓮如上人もできない文底秘沈の解釈ができる高森顕徹という人物は、何億年、何兆年、いや十劫年に一人の人物ということですか。<br />アホらしい。</blockquote><br /><br /><br /><span style="font-size: large;">反親鸞会Ｃ氏</span><br /><br /><blockquote style="">＞名無しさん<br />≫久しく留まってしまう１９願を出て２０願に入った人を「善本修習すぐれたり」と<br />≫評価なされておられるのです。<br />・・・これはヒドイです。。あんまりです。<br />親鸞聖人がこれを聞かれたらどんなに悲しまれるでしょう。<br />どうやったら「評価なされておられる」って読めるのですか。<br />前後の御和讃からも一貫して戒められているじゃありませんか。<br />名無しさんの和讃の解釈は、<br />「１８願を疑って信ぜずながら、なほもまた２０願を信じて善本修習するのは素晴らしい」<br />となるのでしょうか？</blockquote><br /><br /><br /><span style="font-size: large;">退会者Ｄ氏</span><br /><br /><blockquote style="">（会員）<br />高森先生、２０願の自力念仏とはどんな念仏でしょうか。<br /><br />（高森会長）<br />万行超過の念仏だといつも教えているだろう。<br /><br />（会員）<br />では、万行超過の念仏を称えている人の気持ちはどういうものでしょうか。<br /><br />（高森会長）<br />他の善と比較にならないくらい、善本修習はすぐれているということだ。<br /><br /><span style="line-height: 1.4;">高森会長は、２０願行者の気持ちをよく判っていますね。</span><br />誡疑讃の中で、化土往生について親鸞聖人は仰ってますが、親鸞会理論では、これも同じように化土往生を勧められていると解釈することになりますが。<br />無茶苦茶ですね。</blockquote><br /><br /><br /><span style="font-size: large;">反親鸞会B氏</span><br /><br /><blockquote style="">確かに化身土巻の19願の方には、大経胎化段の<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style="">　<span style="color:#660000;">もし衆生ありて、疑惑の心をもつて、もろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん。仏智・<br />　不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。<br />　しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。</span></blockquote><blockquote style=""><span style="color:#660000;">　不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。</span></blockquote><blockquote style=""><span style="color:#660000;">　しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。</span></blockquote></blockquote><blockquote style="">という引用がある。しかし、20願真門釈の方にも<br /></blockquote><blockquote style=""><blockquote style=""><span style="color:#660000;">　ここをもつて『大経』（上）の願（第二十願）にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、</span></blockquote><blockquote style=""><span style="color:#660000;">　十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、もろもろの徳本を植ゑて、心を至し回向して、</span></blockquote><blockquote style=""><span style="color:#660000;">　わが国に生ぜんと欲はん、果遂せずは正覚を取らじ」と。</span></blockquote><blockquote style=""><span style="color:#660000;">　またのたまはく（同・下）、「この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになほ罪福を信じて、</span></blockquote><blockquote style=""><span style="color:#660000;">　善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず」と。</span></blockquote></blockquote><blockquote style="">という引用があるんだよ、親鸞聖人が直々に一部省略して引用してる。断章取義云々で反撃しようと思ったけど残念だね、<br />19願で引用した胎化段と全く同じ箇所から、聖人自身がわざわざこの一節だけをピックアップして、<br />それを20願真門釈の方に引用されたわけだから、この部分は20願の意味なんだよ、ってことを<br />改めて親鸞聖人が明確にしてくださったんだよ。<br />それこそ「若し衆生有りて…」というところと切り離してでも、な。<br />なるほど、大経の胎化段はそもそも自力疑心を誡める内容、そして「もろもろの功徳を修して」は確かに<br />19願の内容だから、20願真門釈ではわざわざそれを省いておられるんだな、というのがよくわかる。<br />　　ちなみに<br />　　19願の方の引用では「善本～」のくだりは省略されていない。その理由は、<br />　　自力諸行（19願）の方の中に、自力念仏も「諸行の中の一つ」として含まれてるから。<br />　　聖道門、たとえば天台なんかも「朝題目夕念佛」っていうしね。<br />　　自力諸行において念仏は「諸行の中の一つという扱いになってしまってる」状態だから省略はされない。<br /><br />大経胎化段全体＝本願疑惑の得失を明らかにし、自力を誡める＝19願、20願双方に通じる<br />「もろもろの功徳を修して」　＝19願の内容（20願真門釈では省かれる）<br />「罪福を信じて、善本を修習」＝20願の内容（19願は「諸行中の１つ」として自力念仏があるから省かれてはいない）<br /><br />よって、以下の４点から、件の和讃は１９願を勧めたものという根拠にはならない。<br /><br />１．「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧めた言葉というが、この言葉は20願のところにも引用されてるので<br />　　「19願を勧めた言葉」という根拠にはならない。<br />　　「罪福ふかく信ぜしめ」が20願真門釈で省かれ、19願特有のキーワードになってればよかったのにね。<br />　　むしろ「罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり」と罪福って言葉は<br />　　御自釈上では20願の方で使ってる言葉だ。<br /><br />２．「若し衆生有りて、疑惑の心を以て諸の功徳を修して…」の部分とまとめて解釈すべき、という主張をしたが、<br />　　親鸞聖人はわざわざその部分を省いた引用を20願真門釈で行なってもいる。省略の有る・無し、二種類の<br />　　引用をなさっているわけだから、「若し衆生有りて～」から解釈すべきか、省略した方で解釈すべきかは、<br />　　和讃の中の言葉に現れてる部分で解釈すべき。<br /><br />３．「若し衆生有りて、疑惑の心を以て諸の功徳を修して…」という言葉も含めた19願の方の引用と、<br />　　その言葉を省略して引用した20願での引用。決定的な違いは「もろもろの功徳を修して」の部分。<br />　　19願のことか20願のことかがこれで判明するから。（「疑惑」は双方にある言葉）<br />　　→そして件の和讃には「もろもろの功徳を修して」に該当するキーワードはない。<br />　　→よって、これは20願の行者に関することであり、19願について説かれた和讃という根拠にはならない。<br /><br />４．まして19願自力諸行を「勧めている」言葉でもないし、そういう和讃でもない。（誡疑讃だから）<br />　　今回勧めているお言葉というのは何も提示されなかった。「勧めているのです」という解釈してるだけ。<br />　　親鸞聖人のお言葉の中で善をせよという言葉を、この和讃との関係をふまえつつ提示すべき。<br /><br />というわけで、もう一度<br />　　件の和讃が「　"１９願を"　"勧めた"　ものである」という根拠になる文証を。<br /><br />・それ以外のことに応える必要はないし、それ以外の質問もしないように。<br />・別の質問は「論点ずらし」。これまで散々批判されてきた親鸞会の常套手段です。<br />・論点ずらしを行なうと、そういう訓練を受けてる人（＝講師、支部長）という疑いが増すだけです。<br />・講師や支部長ではないと言っても、「一会員である証拠」だってないわけだから。<br />・まず「自分の提示した和讃が１９願を勧めたものだ」という証拠を出す、この論点からずれないように</blockquote><br /><br /><br /><br /><span style="font-size: x-large;"><span style="color:#FF0000;"><b>以後、論点ずらしで逃亡</b></span></span><br />]]> 
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